はじめに

South London & Maudsley NHS Foundation Trust (SLaM) はモーズレー病院とベスレム病院という、長い歴史のある精神科病院をもとに、NHSの変遷とともに再編成された組織である。ロンドン南西部の4つの区(ランベス、サザック、ルイシャム、クロイドン)の精神保健ならびに薬物依存医療、および隣接するベクスリ−、グレニッジ、ブロムリーの薬物依存医療を担当している。モーズレー病院、ベスレム病院は共に世界最古の精神病院の一つであり、その歴史は1247年に溯る。モーズレー病院に隣接して、精神科領域の研究では世界でトップクラスの精神保健研究所があるため、世界各国から臨床家や研究者が集まってきて、先駆的な基礎・臨床研究が盛んである。
日本では、アスペルガー症候群を世界に紹介した、自閉症スペクトラム概念の創始者であるローナ・ウイングが所属していたことで有名であろう。児童青年期精神医学分野における教育プログラムとしては世界最高峰と言われるロンドン大学児童青年精神医学専門研修プログラムの中で臨床研修施設として機能しており、臨床研究のみならず教育機関としてのレベルも高い。
地域精神医療学講座では児童思春期分野の医療体制構築を主要な目標の一つに掲げている。今回私は、世界最高峰と言われる臨床機能を調査するために2週間のプログラムで視察を行った。

視察施設

モーズレー病院 マイケルルーターセンター

モーズレー病院正面玄関

マイケルルーターセンター玄関

キングスカレッジホスピタル

キングスカレッジホスピタル正面玄関

キングスカレッジホスピタル児童病棟

リスタープライマリケアセンター

リスタープライマリケアセンター外観

リスタープライマリケアセンター玄関

ガイズホスピタル ブルームフィールドセンター

ガイズホスピタル

ブルームフィールドセンター

プログラム

各国から集まった研修生と指導教官

2011年3月7日
オリエンテーション及びキングスカレッジホスピタル児童精神科ユニット視察
2011年3月8日
リスタープライマリケアセンター視察
2011年3月9日
発達障害及び二次障害に関する研修生向けレクチャー参加
研修生の研修研究成果報告会参加
2011年3月10日
思春期気分障害外来の視察
2011年3月11日
ACAMH Conference; Emanuel Miller Lecture 参加
2011年3月14日
ADHD Conference参加
2011年3月15日
ガイズホスピタル ブルームフィールドセンター視察
2011年3月16日
PTSDチームとの懇話会 Grand Round
2011年3月17日
ベスレムロイヤルホスピタル タイソンハウス視察
2011年3月18日
CAMHS CAG Governance Open Meeting 参加

 

成果報告

今回の視察において特に印象的であった点について紹介し成果報告とする。

医師は時間的にずいぶんゆとりがあり、1人の患者に費やされる時間も長い

視察した全ての施設において、全ての患者が1週間に1回、1回1時間の診察を受けていた。これは、私が視察した施設に特別なことではなく、イングランドにおいては一般的な事なのだそうだ。滋賀医科大学医学部附属病院精神科神経科においては、初診には1時間以上の時間をかけるが、それ以降は2週間に1回、1回5分から10分程度の診察が一般的である。これは日本においてスタンダードな診察時間である。1日に診察する人数は大体最大で6人程度の計算になるが、予約枠が全て埋まっていることはほとんど無く、大体1日に3~4人ぐらいの診察が一般的だった。私は1日に大体40人程度の診察をしているが、それを伝えると非常に驚かれた。「君はどうやって患者の病状を評価するんだ?」と。この差は一体何に由来するのであろうか。可能性として考えられるのは以下の4点である。

  1. イングランドでは精神疾患にかかる人が少ない
  2. イングランドでは病院に来る精神疾患患者が少ない
  3. イングランドでは精神科医が多い
  4. イングランドでは早く精神疾患が治る

以上の4点について考察したい。

  1. イングランドでは精神疾患にかかる人が少ない
    様々な疫学統計が存在するが、日本とイングランドで精神疾患の有病率が大きく異なるという報告は存在しない。統合失調症、うつ病、躁うつ病、発達障害など、発表されている有病率は、イングランドと日本でほぼ同程度である。よって、イングランドでは日本に比べて精神疾患にかかる人が少ないとは言えない。
  2. イングランドでは病院に来る精神疾患患者が少ない
    日本では医療費の3割が患者負担。自立支援の適応を受けても1割が患者負担である。それに対し、イングランドでは全医療費が国費負担でまかなわれ、患者負担はない。この観点から言うと、イングランドよりも日本の方が、患者の受診率は低い可能性がある。従って、イングランドでは日本より病院に来る精神疾患患者が少ないとは言えない。
  3. イングランドでは精神科医が多い
    精神科医に限った正確な統計は入手できなかったが、日本とイングランドで単位人口あたりの医師数にはほとんど差が見られない事を考えると、精神科医に限ってこの診察時間の差を説明するだけの差があるとは考えられない。従ってイングランドでは精神科医が日本より多いとは言えない。
  4. イングランドでは早く精神疾患が治るために、述べ患者数が少ない
    イングランドでは、ほとんどの患者が4~5ヶ月で治療終了となる。日本ではどうであろうか。ほとんどの患者が1年以上あるいは治療終了のめどの立たない状態で通院を続けているのではないであろうか。日本の医師とイングランドの医師の仕事量の差を決定づけるのはこの点であろう。

治療の徹底した標準化

イングランドにおいては、医師の独善は一切認められない。全患者について診断から治療方針に至るまで、医師、心理士、コメディカルで組まれたチームで、徹底的に議論される。ガイドラインに従い、その患者にとってどの治療が有効で、奏功はどれくらいの割合で期待されるか。もし奏功しなければ次に何をするか。もしガイドラインに従わないのだとすれば、その代替治療がガイドラインで推奨される治療よりも、その患者にとって有効であるとする根拠は何か。その場合どれくらいの割合で奏功が期待されるのか。もし奏功しなければ次に何をするのか。と言ったことが、まさに徹底して議論される。カンファレンスの時間は日本よりも圧倒的に長い。
従って、ガイドラインで予想されるとおりの治療成績を確実に得ることができていて、その結果患者はスピーディーに治癒する。

認知行動療法を中心とした精神療法の普及

実は日本で作成されたガイドラインの評価は高く、多くの医師から日本の医療はどうなっているのかと言う質問をたくさん受けた。しかし日本でガイドライン通りに治療している医療機関はどれくらいあるだろうか。認知行動療法も、うつ病の治療には欠かせない治療としてガイドラインに取り上げられているが、一般に広く認知されているとは言えない。
日本において認知行動療法に習熟している精神科医はごく少数である。臨床心理士の中でも認知行動療法に習熟しているのはごく一部である。従って日本ではガイドラインの整備は十分に行われているが、一方でそれを実行するだけの医療資源に乏しいと言える。
イングランドでは精神医療スタッフのほぼ全員が認知行動療法を熟知していて、適応のある全症例に対して最初に認知行動療法を施行することができる。多くの症例が認知行動療法に良好に反応し、4~5ヶ月で寛解を得ることができ、治療終了に至るのである。
このことは社会的に広く認知されていて、従って精神疾患の告知の際に悲壮感はない。
一方で薬物療法の適応に対しては非常に慎重であった。それは薬物療法だと寛解までは精神療法よりも早いが、維持療法に時間がかかるためである。薬物療法はあくまで認知行動療法に対して反応の乏しい症例に対してしか施行されない。

患者がとにかく治る

ある患者の告知に同席した。境界性パーソナリティ障害の症例であった。病名と治療方針が告知された患者は、安堵した表情を浮かべ「よろしくお願いします」とにこやかに、非常に友好的な雰囲気の中で退室していった。日本で境界性パーソナリティ障害と告知したら何が起こるであろうか。インターネットには境界性パーソナリティ障害の悲惨な予後の情報があふれており、多くの精神科医は境界性パーソナリティ障害をまじめに治療しようとしない。患者はたらい回しに医療機関を転々とすることになり、自傷行為を繰り返し、周囲からも忌み嫌われながら、インターネットの情報通り、悲惨な予後をたどる。もし我々が患者に境界性パーソナリティ障害だと告知したら。患者は大きく落胆し、時には怒りだす。日本とイングランドで何が違うのであろうか。
実は境界性パーソナリティ障害はイングランドでは予後の悪い病態として認知されていない。これは弁証法的行動療法の普及によって、境界性パーソナリティ障害が良好にコントロールされているためである。境界性パーソナリティ障害の患者も例に漏れず、4~5ヶ月で治療終了となる。

地域精神医療学講座の今後に向けて

精神科医確保に向けて

  1. モーズレー病院との協力関係の維持
    モーズレー病院との協力関係を維持し、定期的に研修医を派遣することができるような体制を整えることができれば、後期研修施設としての滋賀医科大学精神科神経科の存在を強く研修医や学生にアピールすることができ、ひいては滋賀県の精神科医確保につながる。
  2. 認知行動療法治療者養成講座の設立
    認知行動療法は世界的に注目を浴びている精神療法の一つであり、確かな臨床実績がある。今回の視察でもその有効性を存分に見せつけられた形である。しかしながら、日本国内で認知行動療法を専門的にトレーニングできる機関は少ない。従ってこれを我々が設立することができれば、後期研修施設としての滋賀医科大学精神科神経科の存在を強く研修医や学生にアピールすることができ、ひいては滋賀県の精神科医確保につながる。

児童思春期精神医学分野の拡充に向けて

今回の視察において、イングランドと日本の医療レベルの違いを痛感し、大きな衝撃を受 けたことは否めない事実である。しかし、ではイングランドでは日本でできない特殊なことをしているのかと言えばそうではなく、忠実にガイドラインに従った治療をしているにすぎない。この点において、我々が目指していることの方向性は間違いではないと確認できた。
地域精神医療学講座の構成員のうち、児童思春期精神医学分野を担当するのは、主に稲垣、田中の2人であるが、田中は認知行動療法関連の学会でシンポジストを勤めるレベルの専門家であり、少なくとも滋賀医科大学附属病院においては必要十分な医療が展開できると考えている。
課題は前述の精神科医確保にむけて、教育システムをいかに確立するかであろう。

おわりに

今回の視察中の私のスケジュールをコーディネートして下さった下記の方々に感謝する。

医長のミラビッチ先生

その秘書のケネディさん